一段 一条の橋姫

一、

―――あぁ、やっぱりやめておけばよかった。

今更後悔しても、もう遅い。
露芝柄の小袖をひるがえし、小しのは「それ」から逃げていた。

息を吸おうとすればする程、喉が焼かれたように痛い。
汗で肌着がまとわりついて気持ち悪い。
鼻緒が食い込んで走りづらい。腰まである髪が邪魔で仕方ない。


黄昏時の京で、何処を走っているのかも判らないまま、ただ「それ」から逃げ続けた。


特別に何が出来るでもないが、小しのは幼い頃から良く「見えた」。
十六の年までその目で生活している為、距離の取り方は心得ているつもりだ。

やたらに闇には近付かない。
殊に、逢魔ヶ刻などと呼ばれるこの時刻に外出など持っての他だ。

しかしながら、どうしても気にかかる事があり小しのを急かした。
そして、この有様である。

今、逃げている「それ」は危ない方に分類されるものだと直感で悟る。
初夏だと云うのに、背中だけがやたらと寒い。

息が切れ、頭がぼうっとし始める。

もう、諦めてしまおうか… そうすれば楽になれるのではないか。

そのような考えが頭をよぎると同時に、笛の音が響いた。

「それ」が一瞬たじろぐ。

小しのも我に還り、その隙にまた走り始めた。笛の音が聞こえなければ、あのまま飲み込まれていたかもしれない。
疲労から判断力を欠いてしまったのだろうが、それにしてもぞっとしない話だ。

顔をあげれば、川上に橋が見える。
橋の上で笛を奏でている者が目に入った。先程から鳴り響く笛の音は、この人物のものであるらしい。
一言礼でも、と、足を奏者の元へ向けた。

被衣によって奏者の顔は見えないが、水干を身にまとっているようだ。
どこぞの貴族に仕える牛飼童にしては、上等な物を着ている。
何故このような場所で一人、笛を奏でているのか不思議であったが、嫌な気分ではなかった。
むしろ、この辺りの空気が祓われていくような気さえする。
小しのが息を整えながらまじまじと奏者を観察していると、被衣の裾がふわりと揺れた。

被衣の下からは、少年とも少女ともつかない背格好の童が現れた。
闇を飲み込むかのような、くるりと大きな瞳が小しのを見やる。

「橋は常世と現世の境」

童が声を発する。何故か話すと思わなかった為、小しのは軽く驚いた。

「訪うモノは鬼かヒトか」

童の問いかけと共に「それ」が姿を顕わす。
左手に鬘をからめ、右手に打杖を持つその姿は、嫉妬の念にかられた鬼女であった。