三、

橋の名を「戻橋」と呼ぶことを、背負った童女から教わった。

水を含んだ衣が重く、小しのの背中も濡れてしまっているが、それを言ったところでまた言い負かされてしまうのだろうから黙っている。

戻橋から堀川沿いに北上し、ほどなく西に曲がったところで童女の住む邸に着いた。
邸の大きさを見るに、主は中級の貴族であるのだろう。
門へと近付くが、扉は閉まっており、門番もいない。
中に誰かいないか声を掛けようとすると、門が勝手に開いた。
ように見えた。
烏帽子を被り、水干を着た狸が門を開いたのである。
見えない者であれば「誰もいないのに門が開いた」とでも言うに違いない。

「かまへんかまへん。入りよし」

貴族の邸に足を踏み入れることを躊躇しているように見えたのか、童女が気の抜けた声で小しのを促す。
門をくぐると、すれ違いざまに門番が軽く会釈をした。
小しのは軽く意識を飛ばしかけたがなんとか堪えた。

「姫様!?」
「あ、紫ちゃん。ただいまぁ」

紫と呼ばれた女房がこちらへ近付いてきた。
女房装束は紫の薄様でまとめられている。薫物の香りとともに「できる女房」だと感じた。

「びしょ濡れではありませぬか!」
「堀川に落ちてもうてん。で、この子に送ってもろた」
「…すぐにお着替えいただきます。あなたもどうぞお上がりなさいな」
「あ、でも…」
「まぁまぁ、お上がりやす」

あれよあれよという間に、邸へ上がる流れになってしまった。


邸の中も手入れが行き届いており、居心地が良さそうだと小しのは思った。
ただ、時折すれ違う人間と同じような格好をした動物達が気になって仕方がない。
「毛皮の上に更に衣をまとって暑くはないのか?」聞けるものなら聞いてみたいが、黙って童女と紫の後について歩みを進めた。

庇まで出るやいなや、童女が声を荒げる。

「やっくん!?」
「おばんです。おくたぶれはんでしたなぁ」

“やっくん”がのんびりと笑顔で応えた。
小しのは、彼はなんとなく童女より上手でありそうな気がした。なんとなく。

「今日は約束の日ぃと違(ちゃ)いますやろ?なんで居いやすの!?」
「寂しいなぁ。明姫に会いとうて来たんに、理由なんて要るのやろか」
「そぉゆうことやのぉて!」

やはり、少年の方が上手だと改めて思った。

「また一人で来はったのやろ…?」
「まぁまぁ、早よ着替えな風邪ひきますえ?」
「もーっ!」

溜息を吐きながら童女が小しのへと振り返った。

「そぉや。すぐ戻るし、ちょお待っといてや。黙って去(い)んだらあかんえ、絶対やよ!?」

びしっ、と指差されては小しのも「わかった」としか答えようがない。
紫に連れられて退室した童女を見送ると、

「何なんだ…」

思わず心の声が漏れてしまった。